<目次>
1迷い「何をどうやって始めれば・・・」
2、ポートランドで見た「やれば出来る」
3、問い「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?」
4、ローレンス先生とバーネット校長の悲しみ
5、喝「そんなもん、誰かが始めな始まらへん」
1、迷い「何をどうやって始めれば・・・」
筆者であるNPO法人リンコップジャジャ代表の永村は、2021年1月にジャマイカに渡航し、半年間の活動を終え、7月に帰国しました。前半の3か月間は、これまでブログ等でもご紹介していたように、主にフェアトレード事業に力を注ぎました。
ジャマイカの職人さんと商品づくりに取り組んだり、買い付けをしたりして、ようやく日本に送る商品が揃い、4月の頭に日本に向けて商品を無事に発送。ミッションから解放され「さて、いよいよジャジャの活動の軸となるプロジェクトを見つけなくてはいかない」と考えつつも、コロナの影響で学校が閉鎖され、人の集まりが禁止される状況で、一体どんな活動を始めればいいのか迷っていました。
私は日本で障がいがある人たちの地域生活支援をするヘルパーの仕事をしています。どんなに重い障がいを持っても地域で当たり前の暮らしを実現したいという強い思いを持つ障がい者を支援する仕事を通して、たくさんのことを学びました。
「ジャマイカで障がい者がどんな風に暮らしているのか知りたい」という思いをきっかけに、2017年にはジャマイカの障がい孤児院「マスタードシードコミュニティー」で半年間ボランティア活動を行いました。ジャマイカでは、障がいを持つ子どもは孤児院などで保護されますが、18歳を超えるとほとんど一切の社会的支援が絶たれます。現状として、障がい児を受け入れている孤児院が大人になってもそのまま障がい者を受け入れており、費用は全て寄付で賄われています。マスタードシードコミュニティーにもたくさんの大人の障がい者が暮らしていますが、あくまで「保護」されている状況で、残念ながら入所者が社会とのつながりを持つことはほとんどありません。
ここで記しておきたいのが、マスタードシードコミュニティーは「どんなに重い障がいの子どもでも受け入れを拒否しない」というポリシーを持っており、彼らが拾わなかったら救われなかった命がたくさんあるという現実です。政府からの補助がほとんどない中、誰にも受け入れられない小さな命を繋げているマスタードシードコミュニティーは、ジャマイカの人たちからも敬意を示されています。逆に言えば、孤児院が障がい児・者の命を一手に引き受けなければいけないくらい行政からの支援がほとんど皆無であるということで、これは一部の先進国を除く大多数の国々で見られる現象なのではないかと想像します。
介護スタッフの仲間と。2017年Mustard Seed Communities
2019年から青年海外協力隊員として派遣されていた時も、障がいがある子供が通う学校を訪れていました。そんな風に私は、数年前から、いやもっと前から、「ジャマイカで障がい者のことやりたいな」という思いをぼんやりと持っていました。しかし、日本とジャマイカでは状況が全然違います。ジャマイカには社会保障制度が少なく、日本にある生活保護、国民皆保険制度、介護保険制度や障がい者福祉制度など、無いものを挙げればきりがありません。逆境に屈せずどんな時でも生きる楽しみを見つけるジャマイカの人たちに魅了され続ける一方で、ジャマイカの社会にある様々なニーズに対する気づきも増え、特に障がい者に対して社会の受け皿がほとんどないことがよく分かってきました。ジャマイカには、低い賃金と高い物価のアンバランスに生活を圧迫され、今を生きていくのがやっとという人がたくさんいます。そんな社会では「障がい者の権利擁護」や「重い障がいがあっても地域で生きる」というようなことがものすごく遠い世界に思え、何をどうやって始めたらいいのか分からず、悩んでいました。
2、ポートランドで見た「やれば出来る」
ジャマイカで約5年間活動された古田優太郎さん
元青年海外協力隊員の古田優太郎さんという人がいます。数学の教師としてジャマイカの東部、美しい自然を誇るポートランドという地域に派遣され、隊員としての活動を終えてからも現地に残り、子どもたちの教育に関わっておられました。
ジャマイカに可能性を見出した古田さんは、現地で塾を開講することを決めます。教育にお金をかける余裕のある家庭をターゲットにビジネスを起こし、その利益で経済的に恵まれない子供たちにも教育支援をしようと考えたのです。初期費用はクラウドファンディングで募り、見事目標金額を達成した古田さんは、着々と準備を進められていました。
ところが、コロナが全てを変えました。経済的に余裕があった家庭ですら教育にお金をかける余裕がなくなり、塾ビジネスの続行が不可能となります。ジャマイカで活動を続けることが難しいと判断した古田さんは、クラウドファンディングで集まったお金を「本当に今必要とされていること」に使ってから帰国しようと決意されました。
ジャマイカではコロナウイルスの影響で2020年3月から学校が閉校し、オンライン授業に切り替わりました。しかし、インターネット環境が無い、タブレットを持っていないなどの理由からオンライン授業を受けられない子供たちがたくさんいます。この事に関しては前回のブログでも述べています。
「ジャマイカの学校、コロナ渦で1年半閉校か?」
https://linkup-jaja.org/2021/06/09/school/%e6%9c%aa%e5%88%86%e9%a1%9e/
古田さんは、教育機会を奪われる子供たちに勉強を教えることを決め、使われていない校舎を利用して子供たちを受け入れ始めました。クラウドファンディングのページで、その思いについて書いておられます。
https://readyfor.jp/projects/jamaica/announcements/131699?fbclid=IwAR3BkC5Y2K6amKY0HOYDNNpAozU3SQup7VykQxlv4NeQbB5bP3aqCAnWYI0
古田さんが最初に使っていた空き校舎
最低限の読み書きや計算が出来ることは生きていく上で直接役に立つスキルです。しかし勉強をする理由はそれだけではなく、物事を順序立てて考えたり、結果を予測したり、状況を分析したりする力は、特にジャマイカのような経済的に厳しい国では、将来安定した生活を送るために不可欠な能力であるように思います。
そして何より、取り残された子供たちが再び教育機会を与えられることによって、自分たちにも学ぶ機会があるんだと子供たちが感じられたこと、自分の子どもに手を差し伸べてくれる人がいるんだと親たちが感じられたことは、素晴らしいことです。コロナによって当初のプロジェクトがとん挫してしまったとしても、古田さんが奪われた教育機会を与え直すことで、ジャマイカの子どもたちや親たちに「希望」を与えたのだと思います。
ご本人は塾ビジネスと教育支援の計画が途切れてしまったことを非常に残念に思っておられましたが、彼の臨時学校の様子を目撃した筆者は「物事が起こるのには理由がある。古田さんはこの子供たちに必要とされているから、今ここにいるんだ」と思いました。そして、挫折するのではなく、今自分に出来ることに臨機応変に取り組み、短時間である程度の形にまとめ上げた古田さんは「やれば出来る」という言葉を体現しているようで、筆者に大きなショックと感動を与えました。
3、問い「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?」
古田さんの活動拠点ポートランド
古田さんの活動で素晴らしい点は、立ち上げた教育拠点がサステナブルな運営方法を採用しているところです。貧しい家庭の子どもにはチャリティーで教えますが、基本的には1日500ジャマイカドル(400円程度)の授業料を徴収することで、ジャマイカ人の先生たちにお給料を払うことが出来ています。また、自分が帰国した後もジャマイカ人によって拠点が運営されていくように書類等も整えたそうです。古田さんが今年5月に帰国した後も、彼が立ち上げた臨時の学校は仲間によって運営され、子どもたちが通い勉強しています。
外国人ボランティアが帰った途端に全てが元通りになってしまう、というのが国際協力活動で多く見られる「失敗あるある」ですが、古田さんがジャマイカに残した学校は現地の人たちに引き継がれており、国際協力のモデル事業のようです。
そしてそのことは、「障がい者のことやりたいな。でもお金がないな。政府にも支援策がないな・・・」などと出来ない理由を並べ諦めていた筆者の目を開かせました。彼が立ち上げた臨時学校を視察している時、筆者の腕にはずっと鳥肌が立っていました。感動する気持ちに加え「すごい、やれば出来るんだ!」と勇気が湧いてくるようでした。
オンライン授業を受けるために親の職場のWi-Fiを利用する子供も少なくない
学校の視察を終え、古田さんと食事をし、お話をしていた時のことです。古田さんが筆者に突然「ナツミさんは、本当は何がしたいんですか?」と聞きました。
「え、・・・」
もちろん、現在行っているフェアトレード事業にはやりがいや情熱を感じています。しかしこのフェアトレード事業はNPO法人の収益事業となるべく事業で、その収益事業から得た収益を別のプロジェクトに使えるようになることがNPO法人リンコップジャジャの目指している形です。
私は言葉を詰まらせた後、こう答えました。
「わたし、やっぱり障がい者のことやりたい。」
「でも、ジャマイカには日本みたいに行政からの支援もないし、お金も無いし。私もジャマイカに住んでいるわけではないし・・・」
古田さんは言い訳を並べる私の言葉を遮りました。
「住むとか住まないじゃないと思いますよ。ナツミさんが本当に何をしたいのかが伝われば、支援したい人が必ずたくさんいると思う」
うむ、返す言葉がない!!!
彼の拠点であるポートランドを離れてからも、「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?」「住むとか住まないとかじゃない」という言葉がずっと頭にリフレインしていました。
「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?(古田さんの声)」
「私はジャマイカで本当は何がしたいんだろう?
私は昔からジャマイカで障がい者のことがやりたいとは思っているよな・・・
でも、社会資源や行政からの支援が少ないジャマイカで、そんなこと出来るのか・・・」
悶々とし、考え、筆者の気持ちは揺れ動いていました。そしてその気持ちは少しずつ
「できる。やれば、できる。古田さんが出来たんだから、私にも出来る。」
という前向きな気持ちに切り替わっていきます。
4、ローレンス先生とバーネット校長の悲しみ
ローレンス先生と
「何か出来るかも」というポジティブマインドに切り替わった筆者に、今回の滞在で残された期間は2カ月でした。やると決めたからには今すぐ動き出さなければ。
そんなわけで早速、青年海外協力隊員時代に通っていた知的障がい児が通うスペシャルスクールの先生と、聴覚障害児が通うろう学校の校長に会いに行きました。彼女らに自分の気持ちをぶつけてみることにしたのです。
「協力隊として活動している時から思っていたことではあるけれど、障がいを持つ学生は学校を卒業した後はどこにも居場所が無いですよね。障がいを持つ人たちが社会との繋がりを絶たれ家で引きこもっているしかないという状況を変えたい。わたし、ジャマイカで障がい者の居場所づくりをしたいと考えるようになりました。」
こう話す筆者に、スペシャルスクールのローレンス先生は言いました。
「私は2014年にJICA(国際協力機構)が行う訪日研修に参加して、日本の社会福祉についてたくさんのことを学びました。その学びを活かし、ジャマイカに障がい福祉の仕組みを取り入れることが目的でした。けれど、実際にジャマイカに帰って来ると状況があまりにも違います。何を始めるのにもお金が無いのです。」
そしてローレンス先生は、自分が教えた生徒に対する思いをこう語られました。
「私が担当した子供たちは、みな一生懸命に学校で学び、様々な社会的スキルを獲得します。学校で友達も出来て、社会性が身に付くのです。ところが学校を卒業した途端に彼らの居場所はなくなります。就職できる子はほんのわずかで、ほとんどの子どもたちは家に引きこもるしかなくなるのです。社会とのつながりを絶たれ、引きこもりになった結果、精神的にも不安定になる子もたくさんいます。本当に悲しくて…。」
“Natsumi, it’s very very hard.”
「ナツミ、本当に辛いのよ。」
ローレンス先生の話を聞いていると、彼女の深い悲しみが私の心にシンクロし、お互いに泣き出しそうなくらいでした。
ローレンス先生が教えている子供たち Edgehill School of Special Education
ろう学校の校長であるバーネット先生は、「ジャマイカに障がい者の居場所がありません。どうしてできないんでしょうか」という私の問いに、
“Because people are not interested. They don’t care.”
「だって、世間の人は障がい者のことなんて興味ないじゃない。どうでもいいのよ。」
と即座に答えました。その時のバーネット校長も、本当に悲しそうな顔をしていました。彼女の深い悲しみには社会への憤りを含んでおり、そのやるせない思いが私の胸を突き刺しました。愛情と信念を持って一生懸命指導した自分の可愛い教え子たちが社会から無視されている現実に、彼女はずっと向き合ってきたのです。
「就職できる障がい者なんてほんの数パーセントでしょう。残りの大多数の人たちには社会に自分を受け入れてくれる場所がひとつも無いの。ひとつも。」
ローレンス先生の話を聞き、さらにバーネット校長の話を聞き、「これはもう『ジャマイカで障がい者支援をするのはまだ早い』なんて言い訳をしている場合ではない」と思うようになりました。先生たちが向き合う悲しみや憤りが、後に掲げる「NPO法人リンコップジャジャの活動の柱は、ジャマイカで障がい者の居場所を作ることである」という大きな目標の輪郭を形成したのかもしれません。筆者は「なんで私はもっと早くに話を聞きに来なかったんだ」と、言い訳を重ね、行動を起こさなかった自分を悔いました。
5、喝「そんなもん、誰かが始めな始まらへん」
わたしの大好きなダウン症を持つKさんは大阪で長年自立生活を送っておられる。2015年夏
思い悩んだ筆者は、障がい者運動に長年携わっている両親に電話して、自分の気持ちを話しました。
障がい当事者である母は「そんなもん、誰かが始めないと始まらへんやんか、何も。」と一喝。「日本だって、重度障がい者が地域生活してるのなんて最近のことやんか。3、40年前は日本にだって障がい者の制度なんて無かった。障がい者と支援者が一緒になって作り上げてきたんやんか。」母は1970年代からずっと障がい者運動に関わっています。日本の障がい者がアメリカの障がい者運動から刺激を受け、ヨーロッパの障がい福祉政策を学び、当事者と支援者が力を合わせて日本の障がい者支援制度を作り上げてきたことを、身を以て知っています。
奈良県で知的障がい者の支援をしている父も、彼の地域で活動拠点が出来るまでの道のりを、順を追って説明してくれました。「国の規模や政策が違うから、日本で起きたことをジャマイカがそのまま辿ることは出来ないかもしれないけれど、日本の障がい当事者がジャマイカの障がい当事者をエンパワーメントすることはできる」と話しました。エンパワーメントとは、個人や集団が本来持っている潜在能力を引き出し、湧き出させることを意味しており、障がい者の世界では「抑圧によって失われていたその人本来の力を取り戻すため、後押しする」というような意味で使われます。
父も深く関わっている「ピープルファースト運動」という知的障がい者の人権啓発運動があります。「知恵遅れ」などと呼ばれ、排除・抑圧されてきた知的障がい者が、自分や仲間の権利のために立ち上がる運動です。ジャマイカで改めて観たピープルファーストのDVD「みんなに伝えたいこと~ピープルファースト25年のあゆみ~」の中で、北海道に住んでおられる知的障がい当事者の土本さんがピープルファースト運動を始めたきっかけを問われる場面があります。その時彼は「まだ早いとか言い訳している場合じゃない。始めるなら今だ、と思った」と言います。この彼の言葉は、とどめの一撃のように私の胸を強く打ち、迷っていた私の背中を後押ししてくれました。まさに、ピープルファースト運動が筆者をエンパワーメントした瞬間でした。
「みんなに伝えたいこと~ピープルファースト25年のあゆみ~」
https://pansymedia.com/movie/mov02.html
ピープルファースト運動については、知的障がい当事者が発信するオンライン番組「パンジーメディア」で知ることが出来ます。パンジーメディアについてはまた別でもご紹介しますが、この機会にぜひ観てみて欲しいです!
パンジーメディア
https://pansymedia.com/
出典:ダイヤモンド・オンライン
そのようにして、ジャマイカで教育支援を行っていた古田さんの活動や彼からの問い、ジャマイカの障がい児学校の先生たちの悲しみ、両親からの叱咤激励、ピープルファースト運動からのエンパワーメントなどが、私の「できない」というマインドを少しずつ溶かし、「やれば、できる」というマインドに変えていきました。
つづく