ジャマイカの障害福祉事情⑤

ジャマイカの地域で暮らす障害児者 

アントニーのケース

HOTEL RIU OCHO RIOS - Updated 2023 Prices & Reviews (Mammee Bay, Jamaica)
Ocho Rios, Jamaica

出典:Trip Advisor

観光業を産業の柱とするジャマイカには、美しいカリブ海を求めて毎年250万人、多い年では400万人もの観光客が訪れるそうです。私が暮らすSt. Ann県も北海岸に面しており、家のすぐそばにあるビーチ沿いにはホテルが立ち並んでいます。

クルーズ船が停泊する観光地Ocho Rios(オーチョリオス)を歩いていると、土産物屋の前で物乞いをしている男性が「こんにちは!ほんの少しでいいので、どうかご慈悲を」と私に話しかけてきました。車椅子に座る彼は細く短い腕で小さなバケツを抱えており、バケツにはいくらかのお金が入っていました。私がほんの少しのお金を渡して「良かったら少しお話を伺えませんか?」と聞くと、彼は快く自己紹介してくれました。

アントニーさんは先天性の障害者で、短い手足を持っています。とても社交的でコミュニケーションが上手く、人と接し慣れている感じがしました。

「ジャマイカは道がとても悪いので、車椅子で移動するのは大変でしょう?」と尋ねると、「僕は他県のSt. Catherineからやって来てる。ほんの少しの距離なら歩けるから、家からバス停まで歩いて、バスを乗り継いでここオーチョリオスまで来てるんだよ」と教えてくれました。バスの乗降は乗客や「ドクター」と呼ばれる集金係(Conductor)が手伝ってくれるのでしょう。体の小さい彼がひょいと持ち上げられてバスに担ぎ込まれるのが目に浮かぶようです。

「いつもここで活動されているんですか?」と聞くと、「この土産物屋は僕のいとこがやっているんだ(ジャマイカ人は兄妹が多いのでいとこがうん百人といる)」と答え、長時間立っていることが大変なアントニーさんのため、親切にも店が車椅子を預かってくれていると教えてくれました。

「ご家族と同居されているんですか?」との質問に「僕、独り暮らしなんだ。家賃を払わないといけないから、こうしてオーチョリオスまでやって来て物乞いしてるんだよ」と答えるアントニーさんに「なんてインデペンデントなんだ!」と感心すると同時に、物乞いをすることでしか生きていけないジャマイカの障害福祉事情を改めて思い知りました。

ジャマイカの街では、道を歩いていると視覚障害者が小銭の入ったバケツを上下に揺さぶってジャラジャラ音を立て、寄付を呼び掛けているのをよく目にします。ファストフード店の前で男性の身体障害者が物乞いをしていた時、ハンバーガーセットを買って渡すと「ありがとう。あなたに神のご加護がありますように」と繰り返しお礼を言われて、なんだか逆に辛くなってしまったこともありました。銀行のATMの前で物乞いしいてる人もいましたが、その時はお金を渡す人を見ませんでした。

https://jamaica-gleaner.com/sites/default/files/styles/jg_article_image/public/media/article_images/2015/03/03/BeggerA20140405JB.jpg?itok=eKCQUkPr

出典:Jamaica Gleaner

https://jamaica-gleaner.com/article/news/20150304/jamaican-government-pledges-82m-assist-persons-disabilities

ジャマイカでは、重度障害者の雇用はほとんど実現していません。先に述べたように、生活保護制度もありません。そのため重度障害者は施設に入所するか、家に引きこもるか(親に隠されてしまう)、街に出て物乞いをする以外の選択肢がほとんどないのです。日本でも、わずか数十年前はそうでした。先進国以外の国々では、重度障害者は似たような状況に置かれていると想像します。

ジャマイカは障害者の権利条約に批准していますが、条約に掲げられているような障害者の権利保障の実現とはほど遠いところにいます。制度が変わるのを待っていられないので、今ある制度を最大限利用しながら、さらなる制度保証を求めて地道にロビー活動をしつつ、仕事づくりなどの支援を出来る範囲でやっていくしかないだろうと、現時点では考えています。

NPO法人LINK UP JAJAの「障害者の居場所づくり事業」も、障害当事者との物づくりをメインに進めていく予定です。ジャマイカは物価が非常に高いので、場所代や水光熱費、支援者の賃金や障害当事者の送迎にかかる費用を考えると、ランニングコストがとても大きく、それらを捻出する仕組みを作るのには時間がかかります。そのため、まずは地域の教会や学校などを借りて、少人数で、試験的に取り組みを進めていきます。(助成金などについて、おススメ情報があれば是非とも教えてください!)

NPO法人LINK UP JAJAのInsragramやFacebookページ、ホームページのブログや、年に4回発行する会報「JAJA REPORT」の中で居場所づくり事業の取り組みについても報告して参ります。皆さまの温かい支援、応援、協力、協働、どしどしお待ちしております!

ONE LOVE

NPO法人LINK UP JAJA代表
永村 夏美

ジャマイカの障害福祉事情④

ジャマイカの地域で暮らす障害児者 

ダーシーのケース

Brown‘s TownはSt. Ann県の山の上にある、人口8000人ほど(2009年の見積もり)の小さな町です。数年前から地域の町内会CDC(Community Development Committee)に参加し、地域活性化のための活動を応援しています。

NPO法人LINK UP JAJAが立ち上げた「障害者の居場所づくり事業」のための調査協力をCDCメンバーに打診すると、障害を持つと思われる住人を紹介してくれました。

ダーシーを初めて訪ねた時、知的障害当時者である彼女と高齢の両親が置かれる極度の貧困状態を目にして、「これは障害者支援うんぬんのレベルの話ではない」と頭を打たれました。

彼らが暮らす木造の小屋のような家には電気も水も通っておらず、トイレもキッチンもなさそうで、屋根と壁がある以外はホームレスの暮らしとなんら変わらないようでした。高齢の母は糖尿病のために失明しており、父も足を引きずって歩いていました。家を掃除できる人がいないので埃っぽく、ベニヤがじっとり湿って、ツーンと酸っぱい臭いがしていました。

ダーシーは調査で初めて出会った障害当事者だったので、「最初から大変なケースに出会ってしまった」と正直参りました。かと言って出会わなかったことに出来ないし、どうしようかなぁと思いつつ、とりあえず顔を見にダーシーの家に毎週通うことにしました。

社会から置き去りにされ、ほとんど忘れ去られた存在の自分たちを訪ねる日本人を、ダーシー一家は歓迎しました。母は自分たちがいかに苦しい環境に置かれているか必死で説明し、助けて欲しいと訴えました。認知症が始まっているようで、昔の出来事を繰り返す母の話を、父はほとんど黙って聞いていました。人懐っこいダーシーはすぐに私を受け入れ、大事にしまってあるお絵かきノートを見せてくれました。

最初の訪問を終えた私は、町内会に「ダーシー一家を緊急的に支援して欲しい」と伝え、SOSを受けた町内会のメンバーがベッドマットや食料を寄付してくれました。しかしそれだけでは生活の質は向上しません。日本であれば生活保護を受けて、ケアマネジャーがついて、両親とダーシーそれぞれを支援するのでしょうが、ジャマイカではそのような仕組みが整っていません。私にできることと言えば、絵を描くのが好きなダーシーにノートや色鉛筆を持って行ったり、庭で採れたマンゴーを届けたり、クラッカーやパン、缶詰など腐りにくい食料を寄付することくらいでした。

 

2022年に半年ぶりにジャマイカに戻った際、すぐにダーシーを尋ねました。お父さんが亡くなり、母とダーシーは親戚の家に引き取られて、別の町で暮らしていました。

 ダーシーのお母さんの娘で、父親違いのお姉さんである女性が、ダーシー親子を受け入れていました。お姉さんが暮らす家は決して裕福ではないにしても、水や電気など必要最低限の設備が整っており、ダーシーと母に会ってまず「お風呂に入れるようになったんだ!」と思いました。父が亡くなったことは残念ですが、それをきっかけに彼女らの生活の質が見違えるほど向上し、人間らしい暮らしが出来ているのは嬉しいことです。建て増しを繰り返した家にはダーシーの甥や姪が一緒に暮らしていて、賑やかで幸せな雰囲気でした。ダーシーの表情がとても和らいでおり、彼女がそれなりに快適に暮らしていることが見て取れました。

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2021年 ダーシーと

 その頃大阪では、コロナで数年間見送りになっていた音楽祭「つながらーと」が数年ぶりに開催されることが決まりました。「つながらーと」は障害がある人も無い人も一緒に楽しむ音楽祭で、ステージでは障害当事者グループやプロのミュージシャンが各々のパフォーマンスを披露します。寄付金を原資に開催されている「つながらーと」のスポンサーには障害当事者が企業の看板を書いてくれるというリターンがあり、主催者から「ジャマイカの子供や障害者にもスポンサーの絵を描いてもらえないか」と打診を頂いたので、私はダーシーにその仕事を依頼することにしました。

つながらーと | Tunagarat

出典:つながらーと

https://tunagarart.jp/

 ダーシーが担当したのは自営業の大工さんで、お店やおうちを建てる人でした。大工さんは仕事をする時いつもマリア様の絵を立てかけて作業するので、出来ればマリア様の絵を描いてほしいと言うリクエストが主催者からありました。

 私はマリア様の絵をプリントアウトして持参し、ダーシーにこれを描いてほしいと頼んだのですが、ダーシーはマリア様の絵を椅子に立てかけ、その絵は全然見ないで、なぜか家の絵を描き始めました。ダーシーには「大工さん」とか「家」という情報は一切伝えていないのに、彼女がスポンサーさんのイメージを受け取ったようで、不思議で素敵な経験でした。

 1日のほとんどを家で過ごすダーシー。「彼女が参加するアートクラスみたいな取り組みが出来たらいいな」と以前から考えていますが、まだその実現には至っていません。ダーシーは人懐っこく、とてもチャーミングなので、コミュニティーと繋がればきっと地域の人に愛されると思うのですが、ジャマイカの地域社会には彼女のような知的障害者を受け入れる受け皿がないのです。NPO法人LINK UP JAJAはダーシーのような人たちが地域で認知され、社会と繋がって暮らせるよう、働く場、集う場を作りたいと考えています。

ジャマイカの障害福祉事情③

ジャマイカの地域で暮らす障害児者 

ケリーシアちゃんのケース

「ジャマイカにおける障害者の居場所づくり事業」を立ち上げるにあたって、ジャマイカの地域で障害のある人たちがどんな風に暮らしているかを知る必要がありました。そこで、コミュニティーで暮らす障害児者の自宅を訪問し、聞き取り調査を行いました。

重度の身体障害(おそらく脳性麻痺)を持つ6歳のケリーシアちゃんは、St. Ann県の小さなコミュニティーでお父さんと暮らしています。シングルファーザーのお父さんは定職を持たず、大工仕事を中心にその時ある仕事をしながら一生懸命ケリーシアちゃんを育てています。ジャマイカでは約8割の母親がシングルマザーであると言われるほど未婚率が高く、あちこちに子供を作ったまま父親としての責任をほとんど放棄してしまう男性も少なくありませんが、ケリーシアちゃんのお父さんは対照的に、重度の障害を持つ娘を男手一つで精一杯育てています。

お父さんに「ケリーシアちゃんの障害は何ですか」と尋ねた時、お父さんは「分からない」と答えました。ケリーシアちゃんはこれまで、医師による障害の診断(アセスメント)を受けたことがなかったのです。

ジャマイカの障害福祉は先進国に比べるとまだ発展途上にありますが、何も無いわけではありません。障害を持つ人はジャマイカ障害者評議会(JCDP:The Jamaica Council for Persons with Disabilities)に登録し、必要に応じたサービスの案内を受けることができます。しかしアセスメントが無ければサービスを受けるための登録をすることが出来ません。

私はお父さんを説得し、まずは障害福祉事業を担当する労働社会保障省(Ministry of Labour and Social Security)にケリーシアちゃんとお父さんを連れて行き、アセスメントを受けるための費用補助を申請しました。障害者評議会に「医師による診断を受ける数万円の費用が払えない人はどうすればいいのか」と尋ねた際、管轄の省庁で費用補助を申請するよう指示されたからです。

日本の障害者支援の経験から、ジャマイカでも最初は支援を断られるであろうと予測していました。文字の読み書きが苦手なお父さんが1人で手続きするのは困難で、一度断られると諦めて帰ってきてしまうと思い、省庁に同行することにしました。日本でもジャマイカでも、行政との折衝は押してもダメなら押して押す、です。決して引き下がってはいけません。

省庁では予想通り、一度は「まずは自費でアセスメントを受けてもらわないことには前に進まない」と断られました。私が担当職員に「それではアセスメントを受ける費用を持たない貧しい人たちは福祉サービスを受けられないのですか」と反論し、「どうか助けて頂けませんか」と懇願するのを、ケリーシアちゃんはぽかんと見ていました。担当した女性職員が、父に抱かれる幼い障害児を見て「こんなに可愛い子がねぇ…」と言って手続きを始めた時は、安堵のため息が出ました。

このような行政手続きに関して、低所得層の人たちはあまり知りません。私はたまたま、日本における障害者支援やジャマイカにおける青年海外協力隊活動、NPO法人LINK UP JAJAの活動を通して多少の行政手続きに関する知識があり、省庁職員とのコネクションもあったので、今回の補助申請やサービスへの登録がスムーズに進みました。しかし低所得層は情報へのアクセスが少なく、出生証明書やパスポートなどのIDを持たない人も多くいるため、手続きまで辿り着かない、または手続きを途中で諦めてしまう人が多くいると思います。

ケリーシアちゃんは無料で医師による診断を受け、正式な障害名がついて、ジャマイカ障害者評議会に登録することが出来ました。また、お父さんはケリーシアちゃんを抱えて移動することからひどい腰痛を発症しており、そのことを知った評議会からケリーシアちゃんに車椅子が贈与されました。さらには、お父さんは低所得者への援助プログラムに乗ることが出来て、少しの資金援助を受けることが出来たのです。ケリーシアちゃん担当のソーシャルワーカーもいます。ケリーシアちゃんの件を通して、「障害福祉なんて何もない」と思っていたジャマイカに少しの障害福祉制度があることを学び、しかしサービスにアクセスするにはハードルが高いことも分かりました。

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今回、自らコミュニティーに入り込んで調査することで、たくさんのニーズに出会いました。そして、支援が必要な本人に代わって調べものをしたり省庁と交渉したり、行政サービスに繋ぐまでのサポート、言い換えれば「支援を受けるための支援」を行いました。コミュニティーには確実にニーズがあり、必要な支援を受けられていない人たちが山ほどいます。住民からの申請を待つだけでなく、行政側からコミュニティーにアウトリーチする必要性を強く感じます。「助けて」と言うのにも、誰にどう助けを求めるか、知識や経験が必要とされるからです。

ケリーシアちゃんは6歳で、本来であれば就学を始める年齢ですが、ジャマイカでは行政から就学を案内されることはなく、こちらから特別支援学校などに申し込まなければいけないようです。障害のある子もない子も共に学ぶインクルーシブ教育は実現していないので、まずは彼女を受け入れてくれそうな特別支援学校を探すのが現実的です。子供の教育機会を逃してはいけないと、お父さんを励ましてケリーシアちゃんの就学の実現を後押ししているところです。

ジャマイカの障害福祉事情②

ジャマイカの障害児教育

Edgehill School of Special Educationでリサイクル工作をした時の写真

20年ほど前からジャマイカには繰り返し来ていますが、滞在中もやはり現地の障害福祉事情が気になります。そのため、重度の心身障害者が入所する孤児院でボランティアをしたり、スペシャルスクールと呼ばれる知的障害を持つ児童が通う特別支援学校に通ったりしました。

私が通っていたスペシャルスクールEdgehill School of Special Educationは、現在の私の活動拠点、ジャマイカ北海岸に面するSt. Ann県に位置し、ジャマイカ知的障害者協会「JAID」 (Jamaica Association on Intellectual Disabilities)によって運営されています。JAIDはジャマイカ国内に5つの特別支援学校を持ち、首都キングストンの敷地内には卒業生らがアクセサリーを制作する作業所や、ユニフォームなどを縫製する工場が併設されています。私が知る限り、知的障害者が働く唯一の福祉作業所です。スペシャルスクールにはたくさんの知的障害児がいますが、自立度の高い学生が多い印象で、「トイレや食事が自力で出来ない子供は、やはり家にいるか施設に入るしかないのかな」と感じました。

私が関わっていたスペシャルスクールの教員は大変熱心な人が多く、生徒ひとりひとりの能力に合わせて指導し、学業だけではなく生きるスキルを身に着けてもらおうと頑張っていました。ジャマイカの普通学級の授業は一方通行であることが多く、教師が書いた黒板の内容を生徒がノートにそのまま写しているだけで、実際はほとんど内容を理解していないのでは…と思うことがよくあります。ところが、スペシャルスクールの教員は生徒の能力を把握し、個人のレベルにあった指導をしていたので驚きました。

しかし、せっかく教員が一生懸命生徒を指導しても、知的障害を持つ卒業生の受け皿がジャマイカの社会にはほとんど用意されていません。「卒業後、彼らはどこに行くのですか?」と先生に質問すると、「生徒は在学中にたくさんの事を学び、コミュニケーションスキルや自立度が向上します。しかし学校を卒業したら、彼らには行く場所がない。家に引きこもるしかなくて、精神のバランスを崩す生徒も少なくありません。本当に悲しいことです」と話しました。聴覚障害者が学ぶろう学の副校長先生も同じことを話し、やはり悲しい顔をしていました。先生たちの悲しみが自分にシンクロして胸が痛み、行き場のない卒業生たちの苦しさを想像し、「この状況を変えなくてはいけない」とその時思った気持ちが、その後設立するNPO法人LINK UP JAJAが行う「障害者の居場所づくり事業」の原点であると言っても過言ではありません。



ジャマイカの入所施設(孤児院)

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2017年 Mustard Seed Communityのワーカーたちと

2017年に半年間、Mustard Seed Communityというキリスト教会が運営する障害孤児院でボランティアをしました。「ジャマイカの障害者がどのように暮らしているか見てみたい」という思いから、ほぼ飛び込みでボランティアに入り、施設の職員に混ざって入所者の入浴や排せつ、食事の介護、レクリエーションのお手伝いをしていました。

自己決定で自立生活を送っている障害者は昔からたくさん周りにいましたが、逆に入所施設がどういうものかは全く知らずにいました。ジャマイカに来て入所施設の中に初めて入り、入所者がどのような暮らしをしているかを知ることで、日本の障害当事者がなぜ脱施設を訴えるのかがより深く理解できたように思います。

残念ながら、Mustard Seed Communityの入所者には自己決定の機会がほとんどありませんでした。外出の機会も通院や通学以外はほとんど無いようでした。しかしそこには「脱施設!」と障害当事者が訴える先進国とは大きく違う、厳しい状況がありました。

施設に暮らす入所者には、施設が彼らを受けれていなければ、路上生活を送るどころか命が繋がらなかったかもしれない子供や大人が多くいます。ジャマイカには生活保護も障害基礎年金もありません。私が施設で出会った子供たちはほとんどが親に養育拒否された子供たちなので、誰かが善意で保護しないと生きていけないのです。Mustard Seed Communityは孤児院のため、本来は18歳までしか受け入れないのですが、19歳になったからといって重度の障害者を放り出しだら死んでしまいます。だから実質は、施設は利用者を一生涯養護します。

口からの食事が難しく胃ろうで栄養を取る入所者もいますが、そのような医療的ケアを受けることはジャマイカではとても珍しいことです。重度の脳性麻痺できつい緊張を持つ子供の食事介助をしている時、ペースト食を口に入れてあげても何度も吐き出してしまい、その子がむせる度に背中を叩いたり体位を変えたりしている時、「この施設がなかったらこの子は死んでいただろうな」と思いました。貧しい人ほど情報へのアクセスも少ないため、重度障害児を生んだ母親がどうしていいか分からず途方に暮れ、死なせるわけにはいかないから孤児院に子供を引き取ってもらうというのは、ふつうに理解できます。子を捨てた親を一概に責められない苦しい現実があるのです。

Home | Mustard Seed Communities

出典:Mustard Seed Community

https://www.mustardseed.com/

Mustard Seed Communityは、キリスト教会がアメリカから調達する寄付金をもとにジャマイカに施設を建設し、無償で行き場の無い重度心身障害児者や身体・知的障害児者、HIV保持の若いお母さんとその赤ちゃんなどを受け入れ、今では秋田県ほどの小さい国土のジャマイカに13の施設を持っています。施設が拡大するのは、生きづらさを抱える人が地域で暮らせない現実があるからです。

施設の運営側が一生懸命やっているのは承知なので、自分がおこがましいと思いながらも、人権に配慮した介護方法を取り入れらないか管理職に掛け合ったり、貧しい介護職員へのランチの無償提供などを提案したりしましたが、なかなか難しいようでした。施設という形態が持つ限界や、慢性的な資金不足がもたらす現実があるのでしょう。

Mustard Seed Communityが「どんなに重い障害を持った子供でも受け入れを拒否しない」という理念のもと、社会から見放された障害児者の命を繋いでいることは、とても尊いことです。彼らは日本からやってきた飛び込みのボランティアを温かく受け入れてくれ、「困ったことがあればいつでも私たちを頼って」と気に掛けてくれます。コロナ以後、部外者が施設内に入ることができなくなりましたが、柵越しに入所者の顔を見に行くことで交流を続けています。

Video: Bolt encourages support for Mustard Seed Communities | Loop Jamaica

出典:Loop Jamaica 

https://jamaica.loopnews.com/content/video-bolt-encourages-support-mustard-seed-communities?jwsource=cl

ジャマイカの障害福祉事情①

障害者解放運動とレゲエ

私の母親はシングルマザーで、障害当事者でもあります。幼い私は障害者運動に携わる母にあちこち連れられ、様々な障害を持つ人たちに囲まれて育ちました。

私が生まれた1980年代、日本の障害福祉はまだまだ整っておらず、重度障害者が脱施設・脱保護を訴え、障害者の自立支援制度確立のために激しく闘っていました。食事や排せつの介助が必要なほど重度の障害を持つ人たちが実家や施設から抜け出し、文字通り命がけで自立生活を始め、学生をはじめとする支援者たちがそれを支えました。軽度の身体障害を持つ私の母親は、障害当事者でありながら、障害者解放運動を下支えする裏方のような役割で、休む間もなく働いていたのを覚えています。

日本の障害者運動の歴史で必ず語られる「青い芝の会」は、一部の人たちから過激派と思われるほど激しく活動していました。その強烈さが社会の注目を集め、国会議員の注意を引き、行政が障害当事者と交渉の場を持つようになり、少しずつ制度を確立させていきました。根強く残る差別の撤廃を目指し、インクルーシブな社会を実現するため、身体・知的・精神障害当事者のグループが今も各地で活動しています。旧優生保護法のもとで不妊手術を強制された被害者が国に賠償を求めた裁判が現在も続いているように、障害者の権利保障を求める闘いが終わることはありません。

障害者をバスに乗せろ!」 乗車拒否貫くバス会社と対峙、バリアフリー化の礎を作った「川崎バス闘争」とは何か | Merkmal(メルクマール)

出典:「障害者をバスに乗せろ!」 乗車拒否貫くバス会社と対峙、バリアフリー化の礎を作った「川崎バス闘争」とは何か 2022.7.1 昼間たかし(ルポライター) 

https://merkmal-biz.jp/post/14345

そのようなムーブメントの中で育った自分がレゲエに出会い、ジャマイカに導かれたことは、不思議なようで当然な流れだったようにも思います。私の学生時代、コロンブスがジャマイカを発見し、スペインの入植者たちが原住民を死滅させ、それに代わる労働力として奴隷船で連れて来られたアフリカ人が現在のジャマイカ人の祖先であることは、学校の授業では教えられませんでした。コロンブスの「大航海時代」が何年にあったか覚えさせられたくらいで、その背景にあった侵略と略奪の歴史について触れられることはなかったと記憶しています。10代の私は、レゲエを通してジャマイカが歩んできた苦の歴史を初めて知り、ショックを受けました。同時に、レゲエミュージシャンたちが放つ「奪われた尊厳を取り戻そう!」というメッセージは、私が幼少の頃から垣間見てきた日本の障害者解放運動のスピリットと重なり、ごく自然に、深く、自分の胸に届きました。

Why Bob Marley’s songs are still important to the world (and always will be)

出典:Why Bob Marley’s songs are still important to the world (and always will be) By Sanjana Ray 

https://yourstory.com/2017/02/legacy-of-bob-marley




日本で出稼ぎ生活

2019年にJICAボランティアとして派遣され間もない頃

私は2017年頃から生活拠点を日本とジャマイカに半分ずつ持つような生活を送っており、帰国時には大阪市内で介護ヘルパーとして働いています。資金を貯めてジャマイカに渡り、それが尽きると帰国して働き、金を貯めてジャマイカに戻るというサイクルを繰り返していました。日本に戻るのは帰国というよりも、自分的には出稼ぎの感覚でした。

15年以上勤めている「認定NPO法人出発(たびだち)のなかまの会」は大阪市生野区にある団体で、「どんなに重い障害を持っていても地域であたりまえの暮らしをする」という理念のもと、重度の知的障害を持つ方を中心としてグループホームや働く場を運営しています。「たびだち」は単なる介護派遣事業者ではなく、制度が十分に無い時代から障害当事者と支援者が共に障害者運動に携わり、日本の障害福祉制度を構築してきた運動体のひとつで、現在も知的障害者の権利保障のため「ピープルファースト運動」などに関わっています。

ピープルファースト ::: 社会福祉法人創思苑

出典:社会福祉法人創思苑

https://soshien.com/activity/people.html

ピープルファーストジャパン - ピープルファーストジャパン

出典:ピープルファーストジャパン

https://www.pf-j.jp/

ジャマイカ通いが実を結び、2019年4月からJICAボランティアとしてジャマイカに派遣され、晴れて出稼ぎ生活に終止符を打ち、国から資金をもらって活動出来ることになりました。が、喜んだのも束の間、1年目の終わりにコロナパンデミックが起こり、2020年3月に緊急帰国となりました。2年の任期の半分を残し、志半ばで帰国を余儀なくされましたが、帰国を通告された時には悲しむ暇もなく「どうやってジャマイカに戻って来ようか」と即座に考えたことを覚えています。

NPO法人LINK UP JAJAは、帰国同年、コロナ渦真っただ中の2020年12月に立ち上がりました。観光業を主産業とするジャマイカでたくさんの仲間たちが収入を失い、政府からの援助もなく途方に暮れているのを見て「これは大変だ!」と始めた個人的活動が、たくさんの人たちの協力を得てNPO法人設立へと発展しました。そして、法人の活動は「困っている仲間を助ける」という緊急的な支援から「障害者の居場所づくり」という長期的な支援目標を持つようになります。

JICAボランティアの再派遣が丸2年経っても実現せず、ほとんど忘れていた頃に「永村さん、また行きますか」とJICAから声がかかり、2023年1月末、3年ぶりの再派遣が叶いました。しかも、もう一度2年の任期を頂けるという光栄!環境教育隊員としてSt. Ann県で学校巡回の仕事を中心に活動し、NPO法人LINK UP JAJAが行う「障害者の居場所づくり事業」を進める、二足のわらじ生活が始動したのです!

活動報告 障害者の居場所づくり事業 ケース1

ジャマイカには障害を持つ人たちの受け皿がほとんどなく、重い障害を持つ人たちは人生のほとんどの時間を自宅や入所施設で過ごすことが少なくありません。NPO法人LINK UP JAJAは、ジャマイカで障害を持つ子どもや大人の社会参画の機会を増やすべく「障害者の居場所づくり」に取り組んでいます。

2021年1月から半年過ごした前回の滞在では、障害を持つ人たちが地域でどのように暮らしているのか調査するため、家庭訪問を行いました。2022年1月から3カ月過ごす予定の今回の滞在では、家庭訪問で出会った障害を持つ人たちをフォローアップし、さらなる活動展開のために彼らとの繋がりを深めることを目的として活動しています。

ケース1 前回の家庭訪問で出会ったケリーシアちゃんと父

家庭訪問を通して出会ったケリーシアちゃん。出会った当初、身体障害を持つケリーシアちゃんは車椅子等の補助器具を何も持たず、お父さんにだっこされるかベッドに寝転んでいるかしていました。5歳になるケリーシアちゃんにはっきりとした発語はありませんが、こちらの言葉がけに満面の笑みを返してくれ、その愛苦しさにたちまち魅了されました。

 ケリーシアちゃんの父グリーンさんはシングルファーザーです。フルタイムの仕事には就いていませんが、その時恵まれた仕事に一生懸命取り組んでおられます。ジャマイカではグリーンさんのように短期的な仕事を繋いで生きている人たちがたくさんいます。正規雇用であったとしても収入が十分ではなく、サブビジネスを掛け持ちしている人がほとんどです。ジャマイカで生活するのに十分なお金を稼ぐのは容易ではありません。

 ケリーシアちゃんに出会った日「彼女の障害は何ですか?」と聞くと、グリーンさんは「分からない」と答えました。お金がないため医師による診断(アセスメント)を受けておらず、障害名が分からなかったのです。アセスメントはあらゆる公的支援を受けるのに必ず必要な書類です。5歳になるケリーシアちゃんは本来今年度から学校に通う年齢ですが、アセスメントがなければ養護学校への入学を申し込むことができません。その旨をグリーンさんに説明し、父娘と共に管轄省庁へ出向きました。Ministry of Labour and Social Security(労働・社会保障省)という省庁で、生活困窮者の生活援助や障害者福祉を担う政府機関です。

 ケリーシアちゃんは車椅子やバギー等の器具を持っておらず、グリーンさんは外出の際に娘を抱えて移動していました。父は障害のある娘をデイケアに預けるのは難しいと考え、どうしても必要な時は子守を雇います。シングルファーザーであるグリーンさんに毎日子守を雇う余裕はなく、建設現場などの職場に娘を連れて行く場合がほとんどです。父の努力の甲斐あって、栄養状態の良いケリーシアちゃん。成長と共に体重も増えており、彼女を抱える負担からグリーンさんはひどい腰痛になっていました。

それでも娘のためにタクシーをチャーターして省庁にやって来たグリーンさん。タクシー代を捻出するのも簡単ではなかったはずです。1時間以上遅れてきたグリーンさんにガミガミ怒る私に、グリーンさんも「ひどい腰痛で娘と移動するのは大変だから仕方ないんだ!」と反撃し、省庁前で一戦を交えました。多少のイザコザを引きずらずに付き合いができるのはジャマイカの良い所で、オフィスに通される頃にはお互い落ち着き、「チーム・グリーン」としての目的に集中していました。

省庁のオフィスでは、行政との交渉経験があまりないグリーンさんに代わって、ケリーシアちゃんの置かれる状況を説明し、アセスメントを受ける費用補助を申請したいと伝えました。当初「アセスメントを自費で受けてからその他の支援を申請するように」と担当職員に突き返されましたが、日本でも行政が窓口で支援の申請を断るのはよくある話ですから、これは想定範囲内です。

支援を断られて困った顔のお父さんと愛苦しいケリーシアちゃんを振り返りながら「そのアセスメントを受ける費用が無いからこうしてお願いへ来ているのです。アセスメントを受けることが出来なければ、ケリーシアちゃんは学校に通うことすらできません。ジャマイカでは全ての子供に教育機会を提供することを目的としているはずです。ケリーシアちゃんの未来のために、どうか支援をお願いします」と懇願しました。事前にジャマイカ障害者協会に問い合わせ、アセスメント費用が出せない場合は省庁から費用補助が受けられることを確認していたので、何としてもその確約を取り付ける覚悟でした。

するとその女性職員はケリーシアちゃんを一瞥し「こんな可愛い子がねぇ・・・」と言って、ふぅっと一息つきました。(お、これは良い手ごたえ・・・)と思った矢先、その職員は「分かりました。ではこのフォームに名前と住所を・・・」と申請書類を渡してくれたのです・・・!(最初から出してくれたらいいのに~)と言いたいところを我慢して「ありがとうございます!!」と感謝の意を表します。良い悪いは別として、人脈が全てと言っても過言ではないジャマイカで行政と喧嘩してしまっては、受けられるサービスも受けられなくなってしまうかもしれません。費用補助が受けられると分かったグリーンさんは安堵の表情を浮かべ、父に抱かれるケリーシアちゃんはきょとんとしていました。

省庁での手続きの数か月後、日本に帰国していた私はグリーンさんから電話をもらい「アセスメントを無事受けられた」と報告を受けました。さらにケリーシアちゃんは無償で車椅子をもらったそうです。これは棚ぼたでした。

今回ジャマイカに戻ってきて分かったことは、グリーンさんがその後単発的な資金援助を受けたり、ケリーシアちゃんがタブレットを寄贈されたりするなど、親子が行政から継続的な支援を受けているということです。担当した女性職員が彼らのケースマネージャーになり、自分の仕事の枠を超えて手続きしてくれたようです。

「何のために税金を払っているのか分からない。政府は泥棒だ!」とたくさんの人が憤る社会で、グリーンさんとケリーシアちゃんがここまでの援助を受けられたことは極めて稀なケースではないかと想像します。一生懸命働いてくれたケースマネージャーに感謝の意を述べるべく、近日省庁を訪問する予定です。行政とは言え、事を動かすのはあくまで人。良いコネクションは大切に繋ぎ、育てていかなくてはいけません。

 ジャマイカでは社会福祉が十分整っているとは言えない現状がありますが、ケリーシアちゃん親子への支援を通して、障害児・者や生活困窮者を支援する制度が存在し、何らかの形で機能していることが分かりました。しかしながら、市民が制度について知らされていない、支援を断られたなどの理由から制度を活用できないことも多く、市民の福祉へのアクセスは薄いと感じます。ケリーシアちゃんのケースマネージャーのように親身になって働いてくれる行政職員と出会えるか、これは運もあるでしょう。ジャマイカ政府はより多くの市民が既存の制度を使えるよう、広報活動や窓口での支援に力を入れるべきです。NPO法人LINK UP JAJAとしては「ここでこんな支援が受けられますよ!」とジャマイカ市民の皆さんに情報提供し、グリーンさんのケースのように「行政支援を受けるための支援活動」を広げていきます。

 ケリーシアちゃんへの支援はこれからです。ジャマイカでは、障害のある子もない子も共に受け入れるインクルーシブ教育は実現していません。障害がない子供でも、経済的困難などの理由から就学できていない現実があります。身体障害があり排せつや食事の介助が必要なケリーシアちゃんは、支援学校にさえ受け入れてもらえるかどうか分かりません。ひとまずは、ケリーシアちゃんの支援学校就学を目指して支援していきます。

(活動報告 障害者の居場所づくり事業 ケース2に続く)

活動報告 NPO法人LINK UP JAJA代表 永村夏美

ブログ【レポート】オンラインサロン「おなかの学校」企画Zoomで行くリアルジャマイカツアー

2021年11月7日、これまでにないユニークなイベントが開催されました。ジャマイカの魅力やNPO法人リンコップジャジャを立ち上げた経緯を、レゲエミュージックをふんだんに交えながらご紹介するというオンラインイベント、その名も「おなかの学校企画Zoomで行くリアルジャマイカツアー」です。

企画して頂いたのは、大阪・本町にある「ハラ揉みわごいち」の院長、三宅弘晃先生。その名の通り「わごいち」はおなかから病気を癒す整体院です。20年間、のべ数千人のおなかを揉んでこられた三宅先生のもとには、原因不明の病気で病院をいくつも回って「わごいち」に辿り着く方もたくさんおられるそうです。先日三宅先生が出版された本「一日3分で長引く不調が改善!『おなか白湯もみ』健康法」は、なんとAmazonの便秘本部門で一位を取られたんだとか。私もおなかモミモミしてますよ~♪

https://www.wagoichi.com/media/

その三宅先生が、NPO法人リンコップジャジャの取り組みを、ご自分の周りの方にも知ってもらおうという応援のお気持ちから「ジャマイカのことをぜひ教えて欲しい」と言ってくださり、三宅先生が運営するオンラインサロン「おなかの学校」企画でこの度のオンラインツアーが生まれました。

ふだんあまりジャマイカやレゲエにゆかりがない方たちにも興味を持って話を聞いて頂けるか不安でしたが、三宅先生やお弟子さんたちの素晴らしいサポートのお陰で楽しくオンラインツアーを終えることができ、参加者の方からも「参加して良かった」というお声をたくさん頂き、ほっと一安心でした!

オンラインツアーの様子は三宅先生がご自身のブログで詳しく書いてくださいましたので、詳しくはそちらをご覧ください♪

https://uzumakumuku.info/entry/2021/11/14/192814

三宅先生と初めてお会いしたのは10年くらい前です。実はお弟子さんのひとりが元・レゲエバーのバーテンダーで、彼女と知り合ったのはもう20年前になります。ご縁と言うのは不思議で、有難いものだとつくづく感じます。

三宅先生が特に興味を持ち、オンラインツアー中にもハイライトして下さったのが、ジャマイカの被支配の歴史です。奴隷船でアフリカからジャマイカに連れて来られた現在のジャマイカ人の先祖たちが受けた支配は、奴隷制が廃止となりジャマイカが独立してからも弱者を搾取する社会構造(バビロンシステム)となって居座りました。

レゲエは、虐げられた人々が失われた尊厳を回復するための闘いであり、人権保障を勝ち取ろうというメッセージでもあります。そのメッセージは海を越え、あらゆる国や地域で人々の共感を生み、そうしてレゲエは世界中で愛される音楽となったのだと思います。

出典:LMusic

レゲエ用語にRebel(レベル)という言葉があります。直訳すると「反抗者」、つまり世の中の不条理に立ち向かい闘う人たちのことです。私から見ると、三宅先生やお弟子さんたちはまさにRebelです。表面的な対処を繰り返すことをせず、問題の根本を探り、原因にアプローチする。批判や非難を恐れず、常識を疑い、信念を持って行動されるその姿は本当にカッコイイ!

ちなみにこのオンラインツアー、ラム酒片手にオンライン飲みツアーだったんですよ♪二次会、三次会でもしこたま飲ませて頂きました。三宅先生、本当にご馳走様でした!!きっとまた「わごいち」さんとリンコップジャジャがリンクして楽しい企画ができると思うので、その時はまたたくさんの方とLINK UPできたらいいなと思います。

(リンコップジャジャ 代表 永村夏美)

Buzz Magazineにリンコップジャジャ代表のインタビューが掲載されました。

ジャマイカの新しい音楽や日本のレゲエシーンを中心に紹介しているレゲエ・ダンスホールウェブマガジンBuzzle MagazineにNPO法人LINK UP JAJA(リンコップジャジャ)代表のインタビューが掲載されました。

Buzzle Magazineの‟Buzzle”は「バズる」。インターネット上で口コミなどを通じて一躍話題となるさま、各種メディアや一般消費者の話題を席巻するさまを指す現代語ですね!ちなみにジャマイカではBuss「ボスる」♪

Buzzle Magazine(BM)ではその名の通り最近バズっている話題の人たちを取り上げているので、最新のジャパニーズレゲエシーンを勉強したい人にはピッタリ!

▲現在(2021年9月)のBMのトップ画面。デビューから20周年、パーティーや野外フェスの主催、ラジオ番組のパーソナリティなど、多彩なフィールドで活躍を続け、名実ともに “名古屋を代表するレゲエサウンド” として知られるBANTY FOOTのインタビュー

今回リンコップジャジャ代表・永村にインタビューを行ってくれたのは、沖縄でレゲエサウンドをしているLumaさん。音楽に留まらずジャマイカの社会問題などにも関心がある彼は、リンコップジャジャが立ち上がった経緯や法人が持つビジョンを、ジャマイカの社会的問題と絡めてとても分かりやすく書いてくれています。

Buzzle Magazine

Writer: Luma

▲LumaさんはBMで様々なアーティストをフューチャーし、興味深い記事を書いている

インタビューを読んでリンコップジャジャの活動を知ってもらえると嬉しいです!今後とも、皆様のリンコップ(つながり)、応援、よろしくお願いいたします。

More love!

ジャマイカの障害児とむきあう作業療法士!あゆみさんに聞くvol1

社会格差が大きな課題となっているジャマイカ。その中でも女性や子どもたち、障害者の方たちはより厳しい生活を強いられているのが現状です。今回から2回に分けて、ジャマイカの障害をもつ子どもたちが直面する現実とジャマイカの社会福祉について、ご紹介していきます。

お話を伺ったのは、代表永村の同期でもある2018年度4次隊、ジャマイカ派遣のあゆみさん!作業療法士としてNGO団体CBRJで活動されていたあゆみさんに、がっつり2時間インタビューをさせて頂きました。

  <目次>

1、作業療法士ってどんなお仕事?

2、活動先、CBRJとは

3、気になる現地での活動

4、日本とジャマイカの違い

5、再派遣したら何をする?

1、作業療法士ってどんなお仕事?

筆者
筆者

そもそも作業療法士とはどんなお仕事なのでしょうか?

医療関係のお仕事をしていない一般の方には、なかなか想像しづらいのではないかと思います。ちなみに私も全くイメージが付きません。

というわけで、改めましてあゆみさんよろしくお願いいたします!

よろしくお願いします。

作業療法の仕事は、実際に作業療法をしていても伝わらないことがあるので確かに難しいですよね。哲学としては「作業をすることで人は健康に幸せになる」といわれていて、日常生活でいうと朝起きたら顔を洗って、ご飯を食べてとか、学校に行って、仕事に行って。とかそういう作業(占有している活動、occupation)の積み重ねがその人、その人の人生を作っています。

だから、もし障害を持ってトイレができなくなれば自分の尊厳が下がりますし。その子に合わないレベルの難しい課題ばかりさせられていたり、子どもにとってもみんなができているのに自分だけできなかったら自信を失ってしまいますよね。そしてその作業も和式便所なのか洋式便所なのかなどの文化習慣の違いで、満足する作業も変わってきます。

筆者
筆者

患者さん一人ひとり違うゴールを持っているんですね。

自分の日常生活を、“作業の連続”という観点で見たことはなかったのですが、確かに小さなケガでも“いつも通りの当たり前の作業”が思うようにできなくなるだけで、ものすごいストレスを感じていました。持っている力を作業を通して最大限に引き出すことで、自分の尊厳が保てるということなんですね!

筆者
筆者

そうなるとジャマイカと日本では文化的背景も生活も全く違って、苦労したところも多かったのではないでしょうか?活動先のCBRJはどんなNGO団体ですか?

2、活動先、CBRJとは

障害をもつ子どもたちが通ってくる施設です。

私が活動していた時は、2歳から13歳の子まで。脳性麻痺、知的障害、ダウン症、自閉症、ことばの発達がゆっくりな子たちがいました。基本的にはセルフケア、特にトイレの自立していない重度な子が多かったですね。ジャマイカの学校にも特別支援学校は一応あるんだけど、トイレが自立していないと受け入れてもらえなくて。

キングストンなら障害が重くても行ける場所はもっとあるんだけど、私が住んでいたマンデビルっていう、首都から2時間ぐらいの都市には障害のある子どもたちを預かってくれる施設が少なくて、そういう子たちが日中過ごす場所として来ていました。

マンデビルの朝のまちの様子。 ここの通りに市場と服や日常品、携帯電話、雑貨などいろんな商店がそろっている。

でもちゃんとした教師の資格を持った先生はセンターマネージャーっていう施設長だけで、あとは本当に地域の子育ての経験しかない人たちがスタッフとして働いていました。

歴史はまあまあ長くて1980年代ぐらいからNGOの団体はあったんだけれども、NGOの本部はスパニッシュタウンていう昔首都だったところにあって、私がいたその支部は私が配属される半年前に再開したばっかり。お金がなくて5年ぐらい閉まっていて、教育省からお金が出てやっと再開したところでした。だからほとんどのスタッフは再開してから初めて雇われたスタッフばかりの状況でしたね。

同僚大集合!

筆者
筆者

地元の特別支援学校に行けない子どもたちにとっては、外の社会に関われる貴重な場所なんですね!再開したばかりの施設に、経験の浅いスタッフ。。なかなか厳しい状況が伺えます。

教育省からお金がでてというお話でしたが、運営資金はすべて教育省からでていたのですか?

スタッフの給料自体は教育省から出ています。それが出るようになったから、たぶん再開できるようになったのかな。それ以外は寄付から成り立ってる部分が大きくて。デジセルっていう携帯の会社が、デジセルマラソンみたいなイベントをしたりして、参加費とか協賛のお金を集めて分配してくれます。

Digicel マラソン 夜開始だったので真っ暗です…..

そういう企業から寄付があるのと。ジャマイカはすごく貧富の差があるから、お金持ちの人が寄付をしてくれます。お金持ちの人たちは身につけているものが全然違います。あとは教会からの寄付ですね。

そんなに高くはないんだけど、子どもの家族から徴収する教育費とか。最初入るときに、聞き取りをして子どもの今の発達レベルを聞くアセスメント料と、学期ごとの授業料もあって、それでやっと成り立っていました。

筆者
筆者

政府に企業に教会まで支えてくれる場所が多いのはとても素晴らしい環境ですね。筆者がいたアフリカのザンビアだと、「給料が未払い→仕事のモチベーションが上がらない→売り上げも上がらない→給料が支払えない」みたいな悪循環に陥っているところはとても多かったので。スタッフの給料がきちんと確保されているというのはとても大切なことだと思います。

筆者
筆者

具体的にはどんな活動をされていたんですか?

3、気になる活動内容

なる現地での活動

子どもの数がものすごく多くて、なかなか大変なところもありました。

再開したばかりだったのもあって、私が赴任した時は子どもが5人しかいなかったんだけど、いろんな人が広めたりとかスタッフも宣伝したりして、9月の新学期には30人ぐらいになって。なのにスタッフが5人ぐらいしかいない状況でした。

重度な子が多いから、ご飯食べさせたりオムツ替えたりに時間が取られるし。逆に動けるけれども走り回ってる子もいるから。最低限ご飯はあげるし、オムツは汚くならないように頑張るけど、もうそれでへとへとみたいな感じでしたね。最初は。なんとなく成り立っていました。

資格もないというのもあるし、いつ何するかの枠組み、誰が何をするかも全然決まっていなくて、このだいたいのスケジュールも子どもが増えて4ヶ月後くらいにやっと定着していきました。

みんな大好き!おやつの時間 
photo by たかのてるこ

筆者
筆者

障害のタイプも色々ある2歳~13歳の子どもたちを5人のスタッフでみていたんですか!?

カオスな状況が目に浮かびます。それだけでも脱帽ですが、施設以外でも色々活動されていたんですよね?

そうですね。その施設だけを見ていたら、ジャマイカに求められている作業療法士像とか、その子たちにとって必要なことが見えてこないような気がして、地域に行って、施設が地域にとってどんな役割を担っているとか。子どもたちが社会参加をするために、今学校に入れてもらうためにはどんな要素が必要かとかを知りたかったんです。

それで首都にある障害者登録を管轄している労働省に行って、CBRJにいる重度の子たちが、卒業したあとに行く場所だったりとか、障害者に対するサービスの詳しい条件を聞きに行ったりしていました。

地元の小学校

マンデビルの地域にできたばかりの障害児のアセスメントセンターがあって、そこではどんなサービスを提供しているかを見に行ったりとか。一般の幼稚園(ベイシックスクール)や小学校で子どもたちが求められている作業スキルを確認したり、先生が障害を持った子どもたちにどんな考えを持っているか聞きに行ったりとかもしていましたね。

筆者
筆者

作業療法士のお仕事についてのお話であったように、子どもたちが置かれた文化的背景や環境を知ることがとても大切なんですね。それにしてもあれだけ毎日の仕事が忙しそうなのに、施設の外でもアクティブに活動されていたことが尊敬です。

活動をしていくなかで、どんなところで日本とジャマイカの違いを感じましたか?

4、日本とジャマイカの違い

日本だと子どもは遊ぶもの。って感じだけど、ジャマイカのベイシックスクール(4~6歳の子が通う幼稚園)は読み書き計算ができるようになるための勉強をするところという印象でした。

滑り台1つ滑るにしても数字のカードを渡されて、1番のカードを持っている子は滑っていいよって言われるけどまだ数字が理解できていないので、この子たちにとって難しいことをしているなと思いました。

地元の幼稚園

他にも先生の言うとおりにやらなきゃいけないことが多いかな。工作をするときもヤム芋(紙で?)を作るときに、もう芋の形に切られていたり、絵の具で色を塗るんだけど、絵の具の量もこれくらいって渡されて、こういう風に塗りなさいまで言われて。言われたとおりにやるんです。それでもカリキュラムの目標にはクリエイティブ、創造性を養うって書かれてました。笑

先ほどのお話ともかぶってくるのですが、生活とかをイメージするのに、前提が日本と違うのでそこは難しかったです。寝るのはお布団ではないし、土足の文化だから床でハイハイするのも限られた場所で。

ジャマイカの人のスタンダードが分からないから、それを飽くなく探求していました。

筆者
筆者

絵の具の色も、塗り方も指定されて、クリエイティブを養うのはなかなか難しそうですね笑

幼稚園児は思いっきり遊んだほうがいいのか、勉強したほうがいいのか、どちらが絶対に正しいというのはないと思うのですが、個人的には幼稚園の時に勉強しなくてすんでよかったなと思います。体を使って全力で遊べる時間は、人生の中でそんなに長くないですからね。

筆者
筆者

今後、コロナが終息したら再派遣も考えているとお伺いしました。現地の戻ることができたらどんな活動をしたいですか?

5、再派遣したら何をする?

お世話になった同僚とその娘さん、よくCBRJに遊びに来てくれて日本のことを興味を持って聞いてくれました。

具体的には戻ってから考えようとも思っています。

でも活動中はセンターでの活動に一生懸命で、子どもを連れてきてくれる親とたまにおしゃべりするぐらいで、親にその子の持つ力を伸ばすためにどんなことに取り組んでいるか、家でどんなふうに過ごすとそれが生かせるか、その子に何が必要かとかをきちんと伝えられずに帰ってきてしまったことが心残りです。

あとまだ学校が再開してないのでずっと家にいて、親と関係がうまくいっていない子どもや、家庭環境が複雑で子どもとして必要な世話を十分に受けられていない子も中にはいたので、とても気になっています。

なので再派遣ができたら、家庭訪問をして、家庭の状況とかを知って、もう少し子どもと家族に向き合うこと。できたら自分の配属先の中だけではなく、コミュニティーの情報を集めたり、JICAの研修で知り合ったジャマイカの人たちと協力して、セルフアドボカシー(支援される立場ではなくて、自己決定を行う主体であることを主張し実践していく権利擁護の活動)の取り組みも行ってみたいなと思っています。

でもまだ再派遣されるか未定ですし、そのときに自分の状況が整っているかもわからないし、状況も変わっていそうなのであくまで想像ですね。

筆者
筆者

戻ってからもやることがたくさんありますね!日本だけでなく世界のコロナウィルス感染症が1日も早く終息することを願っております。

今回は、作業療法士は何か?というところから、あゆみさんのジャマイカでの活動やジャマイカと日本の違いについてお話を伺いました。次回はさらに具体的に、障害のある子どもたちが置かれている状況や、あゆみさんの生徒さんたちについてお話していきます。

お楽しみに!

リンコップジャジャが新たに取り組むプロジェクト 「ジャマイカで障がいがある人たちの居場所を作りたい!」

<目次>

1迷い「何をどうやって始めれば・・・」

2、ポートランドで見た「やれば出来る」

3、問い「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?」

4、ローレンス先生とバーネット校長の悲しみ

5、喝「そんなもん、誰かが始めな始まらへん」

1、迷い「何をどうやって始めれば・・・」

筆者であるNPO法人リンコップジャジャ代表の永村は、2021年1月にジャマイカに渡航し、半年間の活動を終え、7月に帰国しました。前半の3か月間は、これまでブログ等でもご紹介していたように、主にフェアトレード事業に力を注ぎました。

ジャマイカの職人さんと商品づくりに取り組んだり、買い付けをしたりして、ようやく日本に送る商品が揃い、4月の頭に日本に向けて商品を無事に発送。ミッションから解放され「さて、いよいよジャジャの活動の軸となるプロジェクトを見つけなくてはいかない」と考えつつも、コロナの影響で学校が閉鎖され、人の集まりが禁止される状況で、一体どんな活動を始めればいいのか迷っていました。

私は日本で障がいがある人たちの地域生活支援をするヘルパーの仕事をしています。どんなに重い障がいを持っても地域で当たり前の暮らしを実現したいという強い思いを持つ障がい者を支援する仕事を通して、たくさんのことを学びました。

「ジャマイカで障がい者がどんな風に暮らしているのか知りたい」という思いをきっかけに、2017年にはジャマイカの障がい孤児院「マスタードシードコミュニティー」で半年間ボランティア活動を行いました。ジャマイカでは、障がいを持つ子どもは孤児院などで保護されますが、18歳を超えるとほとんど一切の社会的支援が絶たれます。現状として、障がい児を受け入れている孤児院が大人になってもそのまま障がい者を受け入れており、費用は全て寄付で賄われています。マスタードシードコミュニティーにもたくさんの大人の障がい者が暮らしていますが、あくまで「保護」されている状況で、残念ながら入所者が社会とのつながりを持つことはほとんどありません。

ここで記しておきたいのが、マスタードシードコミュニティーは「どんなに重い障がいの子どもでも受け入れを拒否しない」というポリシーを持っており、彼らが拾わなかったら救われなかった命がたくさんあるという現実です。政府からの補助がほとんどない中、誰にも受け入れられない小さな命を繋げているマスタードシードコミュニティーは、ジャマイカの人たちからも敬意を示されています。逆に言えば、孤児院が障がい児・者の命を一手に引き受けなければいけないくらい行政からの支援がほとんど皆無であるということで、これは一部の先進国を除く大多数の国々で見られる現象なのではないかと想像します。

介護スタッフの仲間と。2017年Mustard Seed Communities

2019年から青年海外協力隊員として派遣されていた時も、障がいがある子供が通う学校を訪れていました。そんな風に私は、数年前から、いやもっと前から、「ジャマイカで障がい者のことやりたいな」という思いをぼんやりと持っていました。しかし、日本とジャマイカでは状況が全然違います。ジャマイカには社会保障制度が少なく、日本にある生活保護、国民皆保険制度、介護保険制度や障がい者福祉制度など、無いものを挙げればきりがありません。逆境に屈せずどんな時でも生きる楽しみを見つけるジャマイカの人たちに魅了され続ける一方で、ジャマイカの社会にある様々なニーズに対する気づきも増え、特に障がい者に対して社会の受け皿がほとんどないことがよく分かってきました。ジャマイカには、低い賃金と高い物価のアンバランスに生活を圧迫され、今を生きていくのがやっとという人がたくさんいます。そんな社会では「障がい者の権利擁護」や「重い障がいがあっても地域で生きる」というようなことがものすごく遠い世界に思え、何をどうやって始めたらいいのか分からず、悩んでいました。

2、ポートランドで見た「やれば出来る」

ジャマイカで約5年間活動された古田優太郎さん

元青年海外協力隊員の古田優太郎さんという人がいます。数学の教師としてジャマイカの東部、美しい自然を誇るポートランドという地域に派遣され、隊員としての活動を終えてからも現地に残り、子どもたちの教育に関わっておられました。

ジャマイカに可能性を見出した古田さんは、現地で塾を開講することを決めます。教育にお金をかける余裕のある家庭をターゲットにビジネスを起こし、その利益で経済的に恵まれない子供たちにも教育支援をしようと考えたのです。初期費用はクラウドファンディングで募り、見事目標金額を達成した古田さんは、着々と準備を進められていました。

ところが、コロナが全てを変えました。経済的に余裕があった家庭ですら教育にお金をかける余裕がなくなり、塾ビジネスの続行が不可能となります。ジャマイカで活動を続けることが難しいと判断した古田さんは、クラウドファンディングで集まったお金を「本当に今必要とされていること」に使ってから帰国しようと決意されました。

ジャマイカではコロナウイルスの影響で2020年3月から学校が閉校し、オンライン授業に切り替わりました。しかし、インターネット環境が無い、タブレットを持っていないなどの理由からオンライン授業を受けられない子供たちがたくさんいます。この事に関しては前回のブログでも述べています。

「ジャマイカの学校、コロナ渦で1年半閉校か?」

古田さんは、教育機会を奪われる子供たちに勉強を教えることを決め、使われていない校舎を利用して子供たちを受け入れ始めました。クラウドファンディングのページで、その思いについて書いておられます。

https://readyfor.jp/projects/jamaica/announcements/131699?fbclid=IwAR3BkC5Y2K6amKY0HOYDNNpAozU3SQup7VykQxlv4NeQbB5bP3aqCAnWYI0

古田さんが最初に使っていた空き校舎

最低限の読み書きや計算が出来ることは生きていく上で直接役に立つスキルです。しかし勉強をする理由はそれだけではなく、物事を順序立てて考えたり、結果を予測したり、状況を分析したりする力は、特にジャマイカのような経済的に厳しい国では、将来安定した生活を送るために不可欠な能力であるように思います。

そして何より、取り残された子供たちが再び教育機会を与えられることによって、自分たちにも学ぶ機会があるんだと子供たちが感じられたこと、自分の子どもに手を差し伸べてくれる人がいるんだと親たちが感じられたことは、素晴らしいことです。コロナによって当初のプロジェクトがとん挫してしまったとしても、古田さんが奪われた教育機会を与え直すことで、ジャマイカの子どもたちや親たちに「希望」を与えたのだと思います。

ご本人は塾ビジネスと教育支援の計画が途切れてしまったことを非常に残念に思っておられましたが、彼の臨時学校の様子を目撃した筆者は「物事が起こるのには理由がある。古田さんはこの子供たちに必要とされているから、今ここにいるんだ」と思いました。そして、挫折するのではなく、今自分に出来ることに臨機応変に取り組み、短時間である程度の形にまとめ上げた古田さんは「やれば出来る」という言葉を体現しているようで、筆者に大きなショックと感動を与えました。

3、問い「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?」

古田さんの活動拠点ポートランド

古田さんの活動で素晴らしい点は、立ち上げた教育拠点がサステナブルな運営方法を採用しているところです。貧しい家庭の子どもにはチャリティーで教えますが、基本的には1日500ジャマイカドル(400円程度)の授業料を徴収することで、ジャマイカ人の先生たちにお給料を払うことが出来ています。また、自分が帰国した後もジャマイカ人によって拠点が運営されていくように書類等も整えたそうです。古田さんが今年5月に帰国した後も、彼が立ち上げた臨時の学校は仲間によって運営され、子どもたちが通い勉強しています。

外国人ボランティアが帰った途端に全てが元通りになってしまう、というのが国際協力活動で多く見られる「失敗あるある」ですが、古田さんがジャマイカに残した学校は現地の人たちに引き継がれており、国際協力のモデル事業のようです。

そしてそのことは、「障がい者のことやりたいな。でもお金がないな。政府にも支援策がないな・・・」などと出来ない理由を並べ諦めていた筆者の目を開かせました。彼が立ち上げた臨時学校を視察している時、筆者の腕にはずっと鳥肌が立っていました。感動する気持ちに加え「すごい、やれば出来るんだ!」と勇気が湧いてくるようでした。

オンライン授業を受けるために親の職場のWi-Fiを利用する子供も少なくない

学校の視察を終え、古田さんと食事をし、お話をしていた時のことです。古田さんが筆者に突然「ナツミさんは、本当は何がしたいんですか?」と聞きました。

「え、・・・」

もちろん、現在行っているフェアトレード事業にはやりがいや情熱を感じています。しかしこのフェアトレード事業はNPO法人の収益事業となるべく事業で、その収益事業から得た収益を別のプロジェクトに使えるようになることがNPO法人リンコップジャジャの目指している形です。

私は言葉を詰まらせた後、こう答えました。

「わたし、やっぱり障がい者のことやりたい。」

「でも、ジャマイカには日本みたいに行政からの支援もないし、お金も無いし。私もジャマイカに住んでいるわけではないし・・・」

古田さんは言い訳を並べる私の言葉を遮りました。

「住むとか住まないじゃないと思いますよ。ナツミさんが本当に何をしたいのかが伝われば、支援したい人が必ずたくさんいると思う」

うむ、返す言葉がない!!!

彼の拠点であるポートランドを離れてからも、「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?」「住むとか住まないとかじゃない」という言葉がずっと頭にリフレインしていました。

「ナツミさん、本当は何がしたいんですか?(古田さんの声)」

「私はジャマイカで本当は何がしたいんだろう?

私は昔からジャマイカで障がい者のことがやりたいとは思っているよな・・・

でも、社会資源や行政からの支援が少ないジャマイカで、そんなこと出来るのか・・・」

悶々とし、考え、筆者の気持ちは揺れ動いていました。そしてその気持ちは少しずつ

「できる。やれば、できる。古田さんが出来たんだから、私にも出来る。」

という前向きな気持ちに切り替わっていきます。

4、ローレンス先生とバーネット校長の悲しみ

ローレンス先生と

「何か出来るかも」というポジティブマインドに切り替わった筆者に、今回の滞在で残された期間は2カ月でした。やると決めたからには今すぐ動き出さなければ。

そんなわけで早速、青年海外協力隊員時代に通っていた知的障がい児が通うスペシャルスクールの先生と、聴覚障害児が通うろう学校の校長に会いに行きました。彼女らに自分の気持ちをぶつけてみることにしたのです。

「協力隊として活動している時から思っていたことではあるけれど、障がいを持つ学生は学校を卒業した後はどこにも居場所が無いですよね。障がいを持つ人たちが社会との繋がりを絶たれ家で引きこもっているしかないという状況を変えたい。わたし、ジャマイカで障がい者の居場所づくりをしたいと考えるようになりました。」

こう話す筆者に、スペシャルスクールのローレンス先生は言いました。

「私は2014年にJICA(国際協力機構)が行う訪日研修に参加して、日本の社会福祉についてたくさんのことを学びました。その学びを活かし、ジャマイカに障がい福祉の仕組みを取り入れることが目的でした。けれど、実際にジャマイカに帰って来ると状況があまりにも違います。何を始めるのにもお金が無いのです。」

そしてローレンス先生は、自分が教えた生徒に対する思いをこう語られました。

「私が担当した子供たちは、みな一生懸命に学校で学び、様々な社会的スキルを獲得します。学校で友達も出来て、社会性が身に付くのです。ところが学校を卒業した途端に彼らの居場所はなくなります。就職できる子はほんのわずかで、ほとんどの子どもたちは家に引きこもるしかなくなるのです。社会とのつながりを絶たれ、引きこもりになった結果、精神的にも不安定になる子もたくさんいます。本当に悲しくて…。」

“Natsumi, it’s very very hard.”

「ナツミ、本当に辛いのよ。」

ローレンス先生の話を聞いていると、彼女の深い悲しみが私の心にシンクロし、お互いに泣き出しそうなくらいでした。

ローレンス先生が教えている子供たち Edgehill School of Special Education

ろう学校の校長であるバーネット先生は、「ジャマイカに障がい者の居場所がありません。どうしてできないんでしょうか」という私の問いに、

“Because people are not interested. They don’t care.”

「だって、世間の人は障がい者のことなんて興味ないじゃない。どうでもいいのよ。」

と即座に答えました。その時のバーネット校長も、本当に悲しそうな顔をしていました。彼女の深い悲しみには社会への憤りを含んでおり、そのやるせない思いが私の胸を突き刺しました。愛情と信念を持って一生懸命指導した自分の可愛い教え子たちが社会から無視されている現実に、彼女はずっと向き合ってきたのです。

「就職できる障がい者なんてほんの数パーセントでしょう。残りの大多数の人たちには社会に自分を受け入れてくれる場所がひとつも無いの。ひとつも。」

ローレンス先生の話を聞き、さらにバーネット校長の話を聞き、「これはもう『ジャマイカで障がい者支援をするのはまだ早い』なんて言い訳をしている場合ではない」と思うようになりました。先生たちが向き合う悲しみや憤りが、後に掲げる「NPO法人リンコップジャジャの活動の柱は、ジャマイカで障がい者の居場所を作ることである」という大きな目標の輪郭を形成したのかもしれません。筆者は「なんで私はもっと早くに話を聞きに来なかったんだ」と、言い訳を重ね、行動を起こさなかった自分を悔いました。

5、喝「そんなもん、誰かが始めな始まらへん」

わたしの大好きなダウン症を持つKさんは大阪で長年自立生活を送っておられる。2015年夏

思い悩んだ筆者は、障がい者運動に長年携わっている両親に電話して、自分の気持ちを話しました。

障がい当事者である母は「そんなもん、誰かが始めないと始まらへんやんか、何も。」と一喝。「日本だって、重度障がい者が地域生活してるのなんて最近のことやんか。3、40年前は日本にだって障がい者の制度なんて無かった。障がい者と支援者が一緒になって作り上げてきたんやんか。」母は1970年代からずっと障がい者運動に関わっています。日本の障がい者がアメリカの障がい者運動から刺激を受け、ヨーロッパの障がい福祉政策を学び、当事者と支援者が力を合わせて日本の障がい者支援制度を作り上げてきたことを、身を以て知っています。

奈良県で知的障がい者の支援をしている父も、彼の地域で活動拠点が出来るまでの道のりを、順を追って説明してくれました。「国の規模や政策が違うから、日本で起きたことをジャマイカがそのまま辿ることは出来ないかもしれないけれど、日本の障がい当事者がジャマイカの障がい当事者をエンパワーメントすることはできる」と話しました。エンパワーメントとは、個人や集団が本来持っている潜在能力を引き出し、湧き出させることを意味しており、障がい者の世界では「抑圧によって失われていたその人本来の力を取り戻すため、後押しする」というような意味で使われます。

父も深く関わっている「ピープルファースト運動」という知的障がい者の人権啓発運動があります。「知恵遅れ」などと呼ばれ、排除・抑圧されてきた知的障がい者が、自分や仲間の権利のために立ち上がる運動です。ジャマイカで改めて観たピープルファーストのDVD「みんなに伝えたいこと~ピープルファースト25年のあゆみ~」の中で、北海道に住んでおられる知的障がい当事者の土本さんがピープルファースト運動を始めたきっかけを問われる場面があります。その時彼は「まだ早いとか言い訳している場合じゃない。始めるなら今だ、と思った」と言います。この彼の言葉は、とどめの一撃のように私の胸を強く打ち、迷っていた私の背中を後押ししてくれました。まさに、ピープルファースト運動が筆者をエンパワーメントした瞬間でした。

「みんなに伝えたいこと~ピープルファースト25年のあゆみ~」

https://pansymedia.com/movie/mov02.html 

ピープルファースト運動については、知的障がい当事者が発信するオンライン番組「パンジーメディア」で知ることが出来ます。パンジーメディアについてはまた別でもご紹介しますが、この機会にぜひ観てみて欲しいです!

パンジーメディア

https://pansymedia.com/

出典:ダイヤモンド・オンライン

そのようにして、ジャマイカで教育支援を行っていた古田さんの活動や彼からの問い、ジャマイカの障がい児学校の先生たちの悲しみ、両親からの叱咤激励、ピープルファースト運動からのエンパワーメントなどが、私の「できない」というマインドを少しずつ溶かし、「やれば、できる」というマインドに変えていきました。

つづく